2008年9月7日日曜日

「タッジオは君だ」と、にきあは言った(心のなかで)。

突然ですが。
絶世の美女ないし美男子というのは、果たしているんでしょうか。
小説やマンガではわんさか登場するけど、現実はどうなの?そもそも絶世って大げさすぎじゃん?って、常々疑問に思っていました。

美醜の判断は容易につきますが、そこに主観的な「好み」というか嗜好が反映される上に、対象が美術品ではなく生身の人間ということになると、生命維持のバックグラウンドを思わせる何かがにじみ出ていたりして、つい「生活」を想像してしまいます。「意外にお肌荒れてるなぁ、野菜不足?」とか。大きなお世話だけど(^^;)

ところが。話は飛んでパリのメトロでのこと。
私の長年の疑問に答えが出ました。いたんです、絶世の美形ってやつが。

しばらくは気づかなかったのですが、ふと車内を見てみると、マネキンが乗ってました。

「なんでマネキンがこんなところに?!」と本気でビックリ、それが生身の人間であると気付くのに数秒かかりましたよ。
プラチナに近い金髪(しかも巻毛!)、蒼白で濁りのない肌、すらりと伸びた手足・・・。ボキャブラリーが貧相でこれ以上は言い表せません(涙。

一見性別が判断できなかったのですが、体つきからして男性でした。
「絶世の美男子」です。
どこにも人間らしさがない。感情もないような、一切の能動を停止したまさに人形のようでした。さすがに周りの乗客もチラ見してて、かなり気になってる様子。当の本人は手すりに凭れて微動だにせず、ぼんやりと床を見てました。うーん、完璧な横顔。絶妙な鼻の高さ、あごのカーブ。

数分後、そんな車内の密やかな視線をさらりと交わして、ジョルジュ・サンクで降りていきました。シャンゼリゼに人外の美形。もしかしてどこかのメゾンのモデルだったのかな?

・・・と、まあ、そんなことを思い出したのは、「日本の名随筆72 夜」(作品社刊)を読んでいて、吉田健一の「百鬼の会」にこんな一説を見つけたからなんですが。

美人といふのは美男子とともに、幾らか人間であることをやめたものではないだらうか。


そのとーりっ!(力説)
それが絶世という冠をつけるに相応しいものならば、それはもう人ではありません。人形です。鉱物レベルの美しさ、時間を止める永遠性を持つ勢いです。

もうね、偉そうに纏めてしまいますよ。
ルキノ・ヴィスコンティに教えてあげたかった、と。

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